[科学哲学] 生命宇宙論 – 序論

ここでは、MLEXP.のテーマである生命宇宙、ライフスフィアの概念についてお話してみます。
ライフスフィアとは、”生命”と”空間”を複合した造語です。 この宇宙は生命である、という仮定のもとに構想された”生命宇宙”の世界全体の意をこめています。
生命宇宙の前に、皆さんには、宇宙とは何か?宇宙に始まりはあったのか? 全てを創り出した全知全能の神など存在するのか?今宇宙はどうなっていて、 これから先どうなっていくのか?そのような疑問がたくさんあるでしょう。
そもそも、”宇宙論”などと聞くと何か難しいものを考えるかもしれません。 確かに、現在専門家たちが研究する宇宙論とは、やっかいな数式、 理論などを並べて解析を進めている学問分野で、大変理解し難いものであるかもしれません。 かくいう私なども、専門書を広げてみたところで、一体何を書いてあるんだろう‥‥と頭をかかえてしまします。
ただ、一ついえることがあります。 それは、宇宙論(つまり、宇宙を正しく語れる科学的な理論)はまだ完成されていないということです。 これは永遠に完成されないものであるかもしれない。 そもそも、「これが正しい」と確実にいえる科学理論など、実は一つも存在しません。 かつて、完成されたと思われていたニュートン力学も、今では、 それでは自然現象を確実に解析できないことが分かっています。
宇宙論に関しても同じ。中世ヨーロッパでは天動説が当たり前とされ、 それ以外の思想を持つ者には宗教裁判によって制裁が加えられるほどでしたが、 今では、地球が太陽の周りを回っているなどということは、小学生でも知っています。 理論とは簡単に覆るものなのです。証明に必要な証拠はいくらあっても足りないのに、 それの反証をするのには、反例一つあれば十分なのです。 実は、私たち素人が立ち入れる隙はそこにあります。 どんなに長年信じられていた立派な理論も、反例一つあれば崩壊していく。
宇宙論は特に謎が多い分野で、まだまだ未踏の部分があります。 そこに、私たちが夢を広げてみようというのです。 過去のことは過去に行かなければ分かりません。そして未来もまた然りです。 一体宇宙の始まりに何があったのか、宇宙はどういった終焉を迎えるのでしょうか?
そんな疑問について”悩む”のでなく、いっそ”空想”する、と考えたら楽しいのではないか。 ライフスフィアは、そんな空想の1つでもあります。


導入
“生命” とは、この宇宙で唯一普遍の真理である
‥‥そう定義される仮説が “生命宇宙論”です。この論を展開する前に、まず断っておきます。この”生命宇宙論”は、決して特定の宗教的志向に依存するものではなく、むしろ、多くの宗教の中で定義されている「神」と呼ばれる存在を否定するものです。そして、今ある”科学的宇宙論”とされている理論とも、その性質を異にします。この仮説には、根拠となる証拠などありません(その意味では”哲学”的な内容といえるかも知れない)。それを理解された上で、この続きを読み進めていってもらいたいと考えています。
この仮説を語る上でのキーワードは “システム”です。
“生命”とは、一般に、自己保存と繁殖の能力を持つもの、とされており、それは主に有機体である、という考え方が一般化しています(生物学的には、生命が有機体でなければならない、という定義はないようですが)。”生命宇宙”とは、つまりその生命そのものです。生命という概念において一般化してしまっている”有機体”という枠は、まず取り去ってもらいたいのです。”生命”の限定枠は、そもそもないものとするわけですね。そして、”生命”は、全てを包括する無限定なものとして位置づけたいのです。物質、物体のみがその対象となるのではなく、空間、現象、性質、方向性、つまり、それらの情報全てが関連付いて意味を持ち、そうあろうとするもの、即ち”システム” が “生命” なのです。
例えば、人間個々は “生命”として考える。が、人間という種全体でみても”生命”。それを含めた生命体全てを見ても”生命”、それを取り巻く環境も含めて ”生命”、突き詰めれば、宇宙そのものは一個の”生命”として見られる。そして、さらにその存在する意味、理由もまた”生命” によって関連づけられるということです。
つまり、”生命” とは、情報全体を関連づける”システム” なのです。
例えば、あなたが、そうして端末に向かってネットサーフを楽しんでいる。その情報を発信している私という存在がある。そのようなつながりができたこと、今このようなことが起こっていること、それら全て、確かにこの宇宙の中での現象であるわけです。これらは、結局”生命”というシステムによってあるべき一現象として捉えます。これも宇宙全体で見れば、何らかの意味を持つ現象ではないか、と考える。”もの”や “現象”というのは、生命現象の結果として存在しているのであり、その結果をもたらした原因と分離して把握するのではなく、それら全て(根源、理由、方向性など)を関連させて把握するのです‥‥。
“生命宇宙論”の主幹は、宇宙全体が一つのシステムとして機能している、という理屈です。
科学的宇宙論
“生命宇宙論” の前に、今現在ある”科学的宇宙論”と呼ばれる理論について考えてみましょう。
もともと “科学”は実証の学問です。かつて、思想の哲学から科学という新分野が分岐したのはその要素があったためでもあります。しかし、宇宙論というのは実証不可能な部分がとても多い。過去に起こった事象で、現在ではそれを実際に見ることのできないものを扱うのだから当然そうなります。そこで、宇宙の初期などを説明する場合は、理論や数式による解釈によって論を展開する”理論物理学”がメインとなってきます。理論物理学では、物的、或いは状況証拠の提示による論の証明ではなく、筋の通った数式を提示して論を証明することになるわけです。
例えば、よく知られる”ビッグバン宇宙論”と呼ばれるものがあります。これは、思想家のジョージ・ガモフが提唱した当時から現代に至るまで多くの科学者によってその状況証拠が提出され、今では標準的な宇宙論として認められています。端的にこの論を説明すると、宇宙は初期において、ただ一点に集中した”火の玉”だった、そこから急速に膨張(ビッグバンに至るまでの膨張を特に「インフレーション」という)をして今のような宇宙に至っている、という理論です。宇宙が膨張していることは、1929年にハッブルが地球から見えている天体(銀河)全体が一様に遠ざかっている、ということを発見して以来、学会でも一般にも常識的事実として知られるところとなっています。今、天体同士が遠ざかりつつある、ということは、かつて、それらの天体は一箇所に寄り集まっていたのだ、と考えられる。これは、状況証拠によって分かった事実ということになります。
しかし、人間は、宇宙の大部分を目にすることができません。遙か遠くの宇宙や、宇宙全体の大局的な構造を説明するとなると、相対論※1などの “理論物理学”の登場となります。例えば、一般相対論※2は、宇宙の時空構造、或いは、重力の法則などを、数式によって説明しています。また、宇宙の初期において一箇所に集まっていた状態を説明するとき、それは物的(状況)証拠では捉えることができません。物理的に見える宇宙、というのは、光が自由に宇宙空間を飛び回れるようになった頃(誕生から約30万年後といわれている)以降だとされており、それ以前の宇宙に関しても”理論物理学”の範疇ということになります。特に、宇宙が始まった瞬間というのは、極めてミクロな状態であったと考えられます。そこでは、ミクロな素粒子の振る舞いが支配的になり、相対論などでは説明できない。そこで、ミクロの世界をよく説明する量子力学※3が宇宙論に登場することとなったわけです。
“科学的宇宙論”は、今では数多くあります。それを考える科学者(宇宙論者)の数だけそれは存在しているといえます。ただ、それらの宇宙論の基本理念を見ると、大抵”ビッグバン宇宙論”が基礎になっていることが分かるでしょう。ミクロ(極微)の世界を論ずる”量子力学”が宇宙論の世界に登場し始めたのも、宇宙はもともとミクロなものだった、というビッグバン宇宙論の考え方があった為です。実証の物理学に、相対論、量子論、そして「ひも」理論などの理論物理学が相まって宇宙を説明しようとしています。それらは、宇宙で起こる現象を、系統立てて非常によく説明しています。初期宇宙はどのようなものであったか、どのように今の宇宙が成り立ってきたか、或いは、この宇宙の時空構造はどのようなものであるか、など、現象としての宇宙は、”科学的宇宙論”によって、かつてよりも多くの説明が可能となっているのです。
ここで、ちょっと考えてみましょう。”科学的宇宙論”の多くは、そこで起こっている現象を説明する “物質宇宙論”です。宇宙全体を形成している “物質” や “力”が主役の現象を根に論が展開しています。ベースになっているのが、そうした物質や力を扱う”物理学”なので、当然語られる対象もそうなるのですね。現象自体の説明はなされていますが、何故そんなことが起こるのか、ということを考えると、それは”物理学”の範疇外ということになります。つまり、そこで起こる現象の原因、プロセスの説明をしているのが”科学的宇宙論” なのです。
※1 相対性理論: アルバート・アインシュタインによって提唱された光と物質の運動に関する理論。1905年に特殊相対論が発表され後の1915年にそれを一般化した一般相対論が発表される。
※2 一般相対性理論: 特殊相対性理論を一般化したもの。特殊相対論では等速度系での運動を説明する理論だが一般相対論は加速度系での運動も含めて説明している。
※3 量子力学: 主に素粒子に関する力学。量子とは一定のエネルギーを持ち状態が確率的に決まる(粒子と波の性質を併せ持つ)極微粒子のこと。

システムを考える
“生命宇宙論”は、宇宙における現象、その起源、存在理由、全てを統合的に説明することを目指しています。
現象、とは、つまり、そういう”情報”です。それがそこにそうあると確定される、ということは、それがそういう情報として何者かに認識される、ということに等しいと考えます。例えば、あなたが今ネットサーフをしていることは、ネットワーク上で出会う誰かに認識されている。また、それを後ろから見ている友人なり、親なりもいるでしょう。さらに、部屋の中にペットでもいれば、そのペットによってあなたのその姿が認識されているかもしれません。そして、辺りにいるであろう微生物も然り、目の前のコンピュータも、ひょっとして逆にあなたを見ているのかもしれない、そして、部屋全体、家全体、地球全体、さらに宇宙全体で、その情報が認識され、共有されている…。つまり、宇宙とは、そうした情報共有によって成立しているわけです。こうして関連づけられ、一つの意味を持つものを”システム” と呼ぶことにします。
情報によって情報が管理されている、つまり、視点は必ずしも人間ではありません。この情報共有によって、全ての現象は、量子力学における、いわゆる不確定性※4には依存しなくなります。現象そのものが情報であり、そういう情報が他の情報と関連付いている限り、それは確固として”存在する”のです。逆に、一つの情報がその他全ての情報から切り離されてしまうと、その情報はその意味を失います。つまり、それは”存在しない”ということになる。情報は認識されて意味を持つ、と考えるのです。だから、宇宙全体は、そこにある情報を収集し、蓄積し、それらを互いに繋ごうとする。より多くに認識される状態、つまり、共有状態を保とうとする。つまり、それは”存在しようとする”ということです。宇宙全体はそういう方向へ進化する性質を持つのです。そのシステムが”生命” ということになります。
ここで、それでは話が矛盾していないか、と問われるかもしれません。そう、ビッグバンモデルです。宇宙は今膨張している。これは紛れもない観測的事実。ということは、宇宙は繋がるどころか、お互いに隔離されていっているではないか…?
ここで、宇宙をシステムとして見た場合、もっと巨視的な視点になります。まず、宇宙を観察しているのは人間(あるいは自分)である、という先入観を捨ててみます。宇宙の膨張は、もっと巨大な宇宙の視点で、進化の通過点のほんの一部である、と見るのですね。宇宙全体とは、空間レベルでも時間レベルでも、私たち人間が考えるそれよりもっと壮大なものなのです。
“生命宇宙論” でいう “生命とは、”存在すること” を目的とする “システムそれ自体です。そして、その “生命”のみによって成立しているのが “宇宙” だという仮説が”生命宇宙論”なのです。物質的なもの、つまり現象レベルに主眼をおいてきたこれまでの宇宙論と大きく異なるのは、その”システム”に根幹がある、というところです。宇宙の存在した原因に、その”システム” としての “生命” を据えることで、これまで”物質”を考えて行き詰まっていた宇宙の存在理由や、派生する現象の意味付けなどをしてみたいのです。
※4 不確定性: ものの状態は、それを観測するまである確率を持って認識されるという考え方。量子力学では、物体の位置と速度は同時に100%正確には決まらない(不確定性原理)とされる。
突き詰めれば存在
生命宇宙論は、全ての存在にあって特別なものはない、という思想から発起している論でもあります。個々は、それが存在することのみが真理であって、それ以上に何かを求めません。原理は至って単純、それは”存在する”です。そして、我々がそこに見ている意味は、存在に起因する”システム” の様子である、と考えるのです。
例えば、いわゆる “CDコンポ”(この喩えはもう古いですが)なるものがあります。コンポとは”コンポーネントシステム” の略ですが、”コンポーネント”というのは”部品” のこと、それらが寄り集まって一つの”システム” が完成しています。CDプレーヤの他に、カセットテープのデッキ、チューナー、音を増幅するアンプ、実際に音を出すスピーカーなどから構成されています。このシステムの目的は、端的に”音を出す”ことです。たったそれだけを実現するために、これだけの部品が集められているのです。ここで、一つ一つの部品は、単独では、全く別の意味を持つものであるか、もしくは一定の意味を成すことができないものばかりです。これらが集まり、互いに作用し合うことで、”音を出す”という一つの目的を達成しているのです。そう考えると、”コンポ” は”音を出す”という目的の為のシステムである、ということができそうです。
生命の考え方も同様です。つまり、”生命” は “存在”という目的の為のシステムなのです。ところで、”生命”は、どうやってできたシステムなのでしょう?生命宇宙の考え方では、”生命”は創られたものとは解釈しません。誰が創らずとも、それは”存在する”という宇宙の本質によって自然発生的に現れた性質、いわば”生まれたもの” と考えるのです。
考えにくければ、先の例のように、まず、人の手によって”創られた” システムを考えてみます。
テレビでもラジオでも良いです。それらは、初期、本当に、”絵を映す”とか “音を出す”のみの機能であったはずです。それらが、別の部品を組み込むことで、”録画する”とか “ディジタル音声を再生する”などの高機能化を遂げています。これは、システムの進化と呼べると思います。そもそも、テレビ内の部品を見ても、抵抗器、トランジスタ(真空管)、ブラウン管(液晶画面)、アンテナ、受像器と、それら個々は、全く別の機能を持つものですが、これらが一つになることで、テレビ、あるいはラジオというシステムが完成します。
では、それを創り出した人間自身はどうでしょうか?いうまでもなく、人間は生物です。生物の目的は、突き詰めれば”生きる”ことです。その目的を達成するために、生物は様々な形態に多様化しています。その一形態が”人間”という形です。生物は、おのおのの形態で生きる手段を模索している。その結果の一つとして、人間は道具を作り、それを使うという能力を獲得しました。テレビであるとかラジオなどは、人間の生きるという目的から派生して生み出されたものですね。
さらに、生物はどうでしょうか?生物は、炭素の化合物であるタンパク質(アミノ酸)や水分によって構成されています。タンパク質自身は、ある刺激によってエネルギーを消費し、一定の効果を生む(その効果は、タンパク質の種類によって様々)という性質を持っています。これらが寄り集まって、”生物”というシステムを構成しています。そして、”生物”は、さらに根源に近い何かの目的によって派生したもの、と考えることができます。
どんどん突き詰めていくと、原子、素粒子、さらに根源となるものへ突き当たっていくでしょう。それらでさえ、何らかの目的を持った”システム” ではないか、と考えると、最終的に行き着く目的は”存在する”ことになりそうです。そして、それを達成するシステムが”生命” だと考えられないでしょうか。
神は必要ない
古来から、人は、宇宙の起源、そして存在理由も知りたい、と願ってきました。それを定義する一番手っ取り早い方法は、最初に誰かが創ったと考えること。つまり、まず”神”ありき、という発想です。これは、いわゆる宗教的な宇宙観。全知全能、永遠不滅の”神”がいて、その御意志でこの世が創られた…。実に単純明解ですね。
しかし、その “神”は何故存在するのか?何故この世を創ったのか?と、”神”そのものを問うと、”神”とはそういうもの、と、人が勝手に決めてしまうことができるわけです。特に、人のような考え方を持つ”人格神”は、人間の都合によって如何様にもその意志を変えることができます。結局、神の意志、とは、それを創り出した人の意志の象徴ということができます。
“生命宇宙論” では、宇宙は “創られたもの”とは考えません。宇宙は “生命”です。生命は、自ら発生する性質を持っている。そして自発的に進化を重ね、システムとしての形態を構築していく。つまり、もともと自己組織化※5する性質を持つもの同士が、互いに相互作用することで成り立ってきたもの、そうして生まれたものです。”生命”が根本にある限り、誰が手を加えずとも、その “誰”(例えば”神”)がいなくとも、宇宙はそのように存在して然るべきもの、と考えることができます。
つまり、宇宙は “創られたもの”(受動的) ではなく”生まれたもの”(能動的) なのです。
我々が、宇宙に見ている物質や意味は、全て “生命”の目的から派生した “部品”である、ということができます。これは、我々人間に至ってもそう、特別だと思われがちな意識や知性もそうです。この場合、そこに意味づけられる”神”という概念も、宇宙の中に於ける存在が概念化したものとして、システムの目的に取り込むことができるでしょう。
ところで、その “神”が、この宇宙の根源として必要性を求められてきたものであれば、それが存在する意味は既にないことになります。この宇宙がこのようにある為に必要なこと、それは、ただ”生きる”のみ。それが生きることで、相互作用が生まれ、自然発生的にシステムが構成され、オートマチックで一つの宇宙が構築されていく。そこに発生する連鎖反応は必然ではありません。流動的に一意に決まらないシステムが構築されることになります。これは、地球上生物の歴史にモデル化されているような”進化”が、宇宙全体に於いても発現している、と見ることができるでしょう。
個々の存在には、お互いが相互作用すること、関連付くこと、そうした方向性があります。物質は相互作用し、情報は互いにリンクし共有されていく。個々の存在の将来は決定的ではありませんが、少なくとも、宇宙が”生きる”ことによって、生命というシステムは、さらに進化していくことになるでしょう。
※5 自己組織化: 外部からの介入を受けず自ら一つの組織(構造)を形成していくこと。
宇宙とは
一体、私たちはどこにいるのでしょう?そして、そこはどういうところなのでしょう?つまり、宇宙とは何なのでしょう?
中国古典では、”宇”とは空間全体、”宙”とは時間全体を指す、とされています。英語には”Universe”という言葉がありますが、これも、この時空全体を表す意味で使われています。私たちのとりまき全体は、一体どうなっているのか?そして、どのような規則に従って動いているのか?なぜ、それはあるのか?これは、人類の歴史が始まって以来これまでずっと問われ続けている問題です。最も根本的で基本的な問いですが、これについてまだ人類は答えを導き出すことができていません。
人は長年、あらゆる観点からこれを考え、それに関するさまざまな解釈や説明を付けています。それが “宇宙論”です。宇宙論は、つい最近まで自然科学の範疇ではなく、むしろ哲学や宗教(思想)などの分野でした。宇宙は、実際には人の眼で見ることができないものが多く、それは空想の域を出なかったのです。ところが、19世紀から20世紀にかけて、宇宙の観測技術が進歩し、数学的な解析手法も飛躍的に進歩しました。これによって、自然科学は、宇宙論の領域へ手を伸ばし始めたのです。
かつて、宇宙は、永遠に今のような状態を保っているのだ、と考えられていました。局所的な自転や公転はあるものの、基本的には星も銀河も恒常的に今見えている位置にあり、そういう法則の下に存在している‥‥このような宇宙論を “定常宇宙論” と呼んでいます。20世紀に入るまで、このことは至極当然とされていました。
ところが1929年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルによって、遠方の銀河が地球からの距離に比例した速度で一様に後退していることが発見されます。これを機に、宇宙は、実は静的なものではなく、もっとダイナミックに動いているのではないか、ということが指摘されはじめました。ハッブルの発見以前にも、アインシュタインの相対論による動的な宇宙の構想はありました。
相対論の発案者である当のアインシュタインは”宇宙は静的である”と考えていた為、自らの理論によって膨張する宇宙に合点がいかなかったようです。そして、アインシュタインはもともとの相対論の方程式に “宇宙項” という、宇宙を膨張させないための要素を付け加えました。しかし、ド・ジッターによって、宇宙項によって宇宙が急激に膨張する可能性があることが指摘され、また、フリードマンは、宇宙項がない場合でも、急激な膨張が重力で抑えられることを示しました。つまり、理論的な観点からも、宇宙の膨張は予想されたことだったのです。
今膨張している、ということは、宇宙はかつて一点に集中して存在していた、と考えられます。そうなると、当然その宇宙は、かなりの高温、高密度になり、熱量も相当なものになるはずです。そのような状態を “火の玉宇宙” などと呼びます。つまり、そのような火の玉が宇宙の起源であり、そこから爆発的に膨張することで今の宇宙に至っている、という考え方が、ロシアの物理学者であり思想家であったジョージ・ガモフによって提唱されました。これが “ビッグバン” という考え方です。このビッグバン仮説は、観測結果にもよく適合する上、理論物理学の理屈にも沿っている部分が多いので、当初のものから若干の修正はあるものの、基本的な考え方は、現在広く世間に認められています。
しかし宇宙は、まだ現在の科学の言葉では語れない様々な不確定、不確実要素を孕んでいます。科学は現象を局所的な観点で説明はしますが、全体を説明することを不得手としています。例えば、物理学で説明できるものが、生物学でも同じ方法で説明できるかといえば、必ずしもそうはなっていません。物理学の中においても、マクロな事象とミクロな事象を説明する理論は、今のところ異なるものになっています。全体を説明する完全な理論、つまり、完全な宇宙論は、まだ人類の知る限りにおいて存在しないのです。
既成概念を超える
既成概念は、宇宙論を考えるにおいて重要な手助けとなりますが、真実を見抜く上で致命的な障害となることもあります。
例えば、地球って一体どんなもの?という問いに対して、あなたはどう答えるでしょうか。おそらく、今時、地球が青い球状の星で、それが太陽の周りをまわっているということ程度は、小学生でも答えられるところでしょう。ところで、あなたは実際に地球を地球の外から見たことがあるでしょうか?地球が太陽の周りを回っている様子を見たことがあるでしょうか?つまり、地球が丸い、或いは、地球が回っている、という事実を、あなたはどうやって得たのか、ということです。大抵の場合、これらの知識は、実際に地球の外へ出てそれを見た宇宙飛行士や関係者の発言をそのまま受け容れたことによるもの、となるのだと思います。もし、宇宙飛行士や宇宙論の権威が 「地球の大地は平らで、その大皿を亀や象が支えている」 と発言すれば、多くの人はそれを信じてしまうのではないでしょうか。
自然科学を考えるとき、既にそれを考える土台が出来上がっていて、その上で議論します。例えば、力に関する理論を考えるとき、そこにはある程度出来上がった”力学”という体系(土台)があり、それに基づいて考えられている。こうした土台のことを “パラダイム”と呼びます。宇宙論にはっきりとしたパラダイムはまだありません。ただ、それを考えるそれぞれの学問(物理学や数学)には、ある程度のパラダイムが出来上がっています。今人類は、そのパラダイムの上で宇宙を考えようとしています。これは、宇宙について秩序正しく理解する方法としては有効で、ある程度様々な事象が一つの法則で説明できるという点で合理性にも叶っています。しかし、この欠陥は、全体としての宇宙を考えるとき、ある条件で適合していた理論が、別の条件では矛盾してくるということでもあります。つまり、複数あるパラダイムがお互いに牽制し合って、全体を上手く説明できないことがあるのです。
完全な宇宙論を手に入れようと考えるなら、現状のパラダイムから一歩踏み越えることが必要となります。つまり、新たなパラダイムを創造しなければならない。物理学の歴史をみても、こうしたパラダイムの変革は起こっています。それまでの思想が天動説主流であったものが、コペルニクスやケプラー、そしてガリレイによって地動説へと変わり、自然現象を統一的に説明するニュートン力学が誕生し、そして、時間の流れは一定ではなく物体の運動は須く相対的である、としたアインシュタインの相対性理論、ミクロに於ける物体の不確定な振る舞いを説明する量子論の黎明、これらはいずれも、それ以前の既成概念を覆して一転させた革命です。
そして今、宇宙論は、新たなパラダイムを必要としています。それを見つけるには、常識や経験に捕らわれない、全く新たな発想が必要となるでしょう。それを考えるには、例えば、地球は本当に丸いのか、本当に太陽の周りを回っているのか、といった常識的な考え方から疑ってみることも、重要な思考過程であるといえます。以降において、いわゆる既成概念も多々紹介していくことになりますが、それでもそれが常に正しいと思わず、なぜそうなのか、どうしてそうなるのかということを考えた上で、理解を進めていきたいと思います。
そしてライフスフィアへ
現象のある部分をサンプリングし、それを観察することで法則を得ようとするのが、現在の科学の手法です。これは、宇宙のいかなる場所においても同様の法則が成立する、という前提の下で採用されています。しかし、こうした局所的な理論で全体を上手く見渡せないことは、当の科学者たちも熟知しています。それらの局所的な理論をなんとかつなぎ合わせて一つのものにしようとしている。これは、いわば科学者の夢です。
この”ライフスフィア”は、”生命宇宙論”の概念に基づいて創り出された仮想宇宙です。現在の科学が局所的な考え方であるのに対し、”生命宇宙論”は、いわゆる大局的な観点からの考え方です。宇宙全体として、一体どのような振る舞いをしているのか?そちらを考察することが主流となります。
“生命宇宙論”が目指しているのは、例えば、既存の物理学で生物の振る舞いを考える、という思考からの脱却です。物質の運動など力学を中心に扱う従来の物理学は、物体の運動や、全ての根本要素である素粒子の振る舞いをよく説明します。しかし、その素粒子の法則をもって、生物が実際にどのように振る舞うか(特に人間などの知能を持った生物がどう振る舞うか)を予測することは、おそらく無理です。”無理”という言葉は、とても複雑で解析には困難を極めるが不可能ではない、という意味合いでも使用されることがありますが、ここでいう”無理”とは、本当に解析は不可能、という意味での”無理”ということです。つまり、生命宇宙論は、陽子や中性子、電子、その他の粒子の振る舞いが、仮に一つの法則で完全に説明可能になったとしても、それを持って、生物の行動は予言はできない、という立場を採っています。
この立場は、”複雑系”という分野の考え方に似ています。”複雑系”というのは、全体を構成する単位の一つ一つの性質が、全体の流れによってダイナミックに変わってくるとして事象を捉えようとする考え方です。例えば、北京で蝶々が羽ばたくという事象があったとして、その空気のゆらぎはその時点のみで語られるものでなく、後の大気全体の様子にも影響を与え、一ヶ月後にはフロリダでハリケーンを引き起こしているかもしれない、ということです。蝶々の羽ばたき運動とハリケーンを個々に見るのではなく、これらの事象全体を見て、その法則性なり一貫性を見ようというのが”複雑系”の考え方です。
物理学のそれぞれの理論が、部分から全体を眺めようとするボトムアップ的な考え方であるのに対し、”複雑系”の科学は、まず全体をシステムとして把握し理解していく、いわゆるトップダウン的な考え方といえます。”生命宇宙論”は、これら二つの性質を併せ持つような考え方にしてみたいわけです。
宇宙を理解しようとするなら、まずその全体の在りようを把握しないと、結局部分的な理論だけが散在する形に終わらないか、ということが懸念されます。もちろん、それらの規則や法則は、同じこの宇宙に存在しているものである以上、どこか低レベルなところで繋がっているものであることは確かでしょう。だから、物理学の局所解析という手法は間違いではありません。ただ、”宇宙”という大きなものを私たち人間が理解しようとする場合、その全てが人知によって理解可能、とはいかないでしょう。知りうる範囲で、全体を筋を通して理解する、というのもまた間違いではないはずなのです。
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