ずっと以前から、私はこの原理について考えていた。高校時代、このようなテーマを扱ったSFを読んでいて、いたく感動した覚えがある。こんな考え方もあったのかと。その後「人間原理的宇宙論」、そういう考え方を実際に提唱する学者の一派があると聞いて、SFと科学理論がシームレスになりつつあることに更に感動したものだ。
人間原理的宇宙論、これは「宇宙の人間原理」とも呼ばれている。その基本的な考え方は、『今、ここに我々人間が存在しているということは、宇宙は人間が存在できる環境であったという確かな証拠である』というようなもの。この環境は宇宙の一部に限定されず、いずれの場所においても同様に人間が存在する可能性を持つ。つまり、宇宙はどこまでも等質であるということ。人間が存在でき、観察できる環境、すなわち法則は、宇宙の法則そのものに他ならない。と、ここまでは、普通に受け入れられる考え方だろう。実は、さらに強い考え方があって、今、我々人間が存在している、ならば、宇宙は人間が存在できる環境を用意していたことになる、つまり、宇宙は人間を存在させる為に在るのだ、という、少々人間の思い上がりとも取れる発展した考え方。
もう少し踏み込んでみる。宇宙が存在している理由って何?という疑問、これを考えるとき、宇宙も人と同じように意志を持つのではないか、と考えると、自然に考察することができる。「神」の話とも絡んでくるが、宇宙の存在理由を考えるとき、一番手っ取り早いのは、そうした人格的神を容認することだ(私自身は、これについてあくまで否定的だが、ここではあくまで話を簡単にするために比喩的に人格「神」を擁立する)。宇宙には存在理由がある。ならば、宇宙は最終目標を持つ、それは宇宙の始まった動機であり、存在する意義であろう。実際、人類が認識できる範囲でしか物事は検証できず、ある一定の範囲で有効な法則は、宇宙全体にもいえるだろうという、宇宙の等質性を信じるしかない。もし、宇宙の各部分によって法則が異なるようなら、この原理ばかりか、人類科学自体破綻してしまう。というところでは、神を信じるのに近い状態(分からない部分をブラックボックスとして神に任せてしまう)ともいえそうだ。
意志といえば、人類も意志を持つ。ここで、宇宙が自己相似性のもとに、人類にも同様な意志を与えた、と考えてみる。「人類の意志」とは「人類の共有する意志」ということ、すなわち、人類が等しく認知する意志。それは知覚であり、それにより認識される事象であると。それが、この宇宙での事象である限り、この宇宙の法則に従う事象に他ならない。宇宙の法則とは、宇宙の意志に帰せる。故に、宇宙の意志と人類の意志は共有のものであり、同一のはずである。
重要なのは、宇宙も人間も、同じ材料でできている、ということ。材料とは、アミノ酸や土や水、とうマクロ的なものに限らず、宇宙の構成要素としてもともと存在していたと考えられている宇宙の根源のことである。同じものでできているのだから、その性格がそう大きく変わるものではないだろう、と。少なくとも、私たち人間が考えつく範囲で物事は構成され、動いているのではないか、と考えることができる。これと同じ方向の考え方で、自分の認識している範囲での出来事が、その人にとって宇宙の全てであり、それは、さらに知ろうとすることで、その宇宙をどんどん広げることができる。宇宙とはそういうものだ、と考えてしまうのもありだと思う。「人間原理」とは少々違うが。
ところで、世の中に成立しているのは「人間原理」だけではないだろう。犬だって猫だって存在しているから、当然「犬原理」なり「猫原理」なりも、平等にあって然るべきのはずだ。