[科学哲学] 「人」のやりたいこと

人を「人類全体」とするのか、人間個人、一部の人類、その「人」という生命体、知性体とするのかは問題にしない。とにかく、「人」という存在が、何らかの物理法則なり数式に乗っ取って運動しているとはしないまでも、その先にあるものは決まっているのか、何か目標に向かって行動しているのか否か、もっと言えば、生命体が進化してきたのは「人」という最終点に到達する為だったのか、さらに先はあるのか‥‥などの疑問が限りなく浮上する。
些細なところで、例えば、A君が「あの娘、いいな」と恋心を持つことは、本能に乗っ取って子孫を残すということ一つに集約されるのか、Bさんが「ミュージシャンになりたい」というのは自らを養っていく手段としてだけの意図なのか、最終的に私たちのやってることの意味はなんなのかって考えて、それらを一つの法則なり原理なりにまとめられるものならその傾向というか方向というのが、一体何処に向かっているのだろう、などということを疑問に感じたりする。
巷では経済が崩壊しかかっていて、それを立て直そうとする人の動きがあり、しかし一方で全く報われないという事実がある。ある建設物を巡って住民投票が行われるも、それをもみ消さんとばかりの力も動いている。どこかの知事が税制改革を打ち出せば、どこかの官僚が反発する。タバコのポイ捨てをやる人もいれば、それを掃除する人もいる。ゆっくり静かに走る車もいれば、壮大な爆発音をとどろかせて走る車もいる。おしゃれをする人もいれば、まったく地味な人もいる。太る人もいれば痩せる人もいる。笑う人もいれば泣く人もいる。生まれる人もいれば死ぬ人もいる‥‥
殊様々な人の生き方があるものである。こんなバラバラでは、到底一つのことを成し遂げようという傾向は見えてこない。そもそも、人にすること、したいことなどないのだろうな、と思う。人がいろいろしているうちに、結果的に何かが出来上がってくるということはあるのかもしれないが、最初から何かをしよう、と目的のようなものがあるわけではなさそうである。もちろん、個やある集団として一つの目的を据えることはあるが、人類として、あるいは、個と別の個がその志を共有する、というようなことは、まずない。結局人の流れも、カンブリア爆発のような多様性からの試行、選択によって、より合理的、というか、その環境に合ったタイプの者が選ばれていくのだろう。
「少年よ大志を抱け」とは福沢諭吉の言葉だったか。大志を抱くことは悪いことではないに違いない。少なくとも、それに向かって前進することができる。他に挫折があっても、その最終目標だけ妥協しなければ、なんとか乗り切れるものだ。しかし、その最終目標すら崩壊してしまうと、人間そのものが崩壊することもままあることで、大志を抱くのもほどほどが良いのだろう。こうして、人はほどほどの目標を持ちつつ、周囲に合わせながら、自分の欲求もできるだけ満たす方向で、ほどほどに生きている。自分勝手に暴走すると、それはお縄をちょうだいする羽目になったりする世の中だから、漫然平凡な社会が保たれているのだろう。
しかし、そんな社会にどっぷり浸かっていると、ふと思うことはないだろうか?一体、みんな何がやりたいんだろう、と。

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