自己とは何か。身体的なもの、精神的なもの、そうしたところ以外にも自己というものが見いだせる。その一例として、免疫的自己がある。免疫とは、病原菌などから自己を守るシステムとして知られているが、それは自己と自己でないものとの判別を行うシステム、ただ病原菌だけをより分けているのではなく、自己とそうでないものを区別し、そうでないもの、つまり非自己と認識されたものを自己の体内から排除するシステムでもある。精巧にこのシステムが作用して自分が自分として生きていける。
キメラの実験を例に考えてみる。キメラとは生物学でいう合成生物のこと。実験では、ニワトリとウズラの受精卵を使い、それを神経管ができてくる時期に、ニワトリの神経幹を取り去ってウズラの神経管を埋め込む。そこから脊髄ができ、末梢神経が伸びるわけだが、そうするとニワトリにウズラの羽が生えたような生物が発生する。こうして、しばらくはニワトリとウズラが一つの個体の中で両方自分であるかのように振る舞うのだ。神経幹とはその生物の形態を決めるはたらきを持っているが、では、神経幹ではなく、脳を取り替えてみたらどうか?ニワトリの受精卵の脳になるであろう部分を取り去って、ウズラの脳になるであろう部分を埋め込んでみる。そうすると、脳はウズラで体はニワトリというキメラができる。これは、一種の移植実験で、ベースとなる体にある部分を移植すると、その部分だけ別の形態を持って生まれてくる。脳を移植された場合も然りで、脳だけウズラで体はニワトリ。では、自分がニワトリなのかウズラなのか自己で判別できているのかが問題になる。
実験では、そのキメラが、ニワトリではなく、ウズラのような鳴き方をした。このことから考えると、やはり自己は脳にあるかのように思われる。個体の行動様式を決めているのは脳である。つまり、それは自己であり、自己は脳にあるといえる。しかし、これが成長すると、ニワトリの免疫システムが働きはじめ、ウズラの脳を非自己と見なし攻撃しはじめる。やがてこのキメラは死に至る。ここから考えても、一体自己とはどこにあるのかという問いには完全に答えられていないのだ。脳については後でも述べる。
ところで、キメラの実験は、ヤギとヒツジでも試されているようである。そして猿と人間、なんてところも研究されているようだ。今、豚に人間の臓器を持たせ、必要な部分だけ豚から人間に移植する、そうしたファームビジネスも既に実験段階にあるという。前向きに見れば、これで慢性的な移植用の臓器不足が解決される。実際、ヒヒの肝臓を人間に移植する医学的治療は米ピッツバーグ大学で行われた。
免疫はどこで自己を判別しているのか?ここで、遺伝子的自己という点が問題になる。人間の細胞は約60兆。46個の染色体で構成されるDNAは、約30億の塩基対からなっている。そのわずかな違いで人間は様々な個性を持ち、多様な考えも持てるようになっているのだ。
DNAにはその個体の様々な情報が入っている。この中には病気の情報も入っていて、現在、遺伝子を調べることで様々な病気の診断を行うことも可能となっている。これに続いて、遺伝子治療も進歩させるべく現在研究が続いている。遺伝子を見ることで、その個体のおおよその潜在能力はみることができるという。先天的に持つ病気や、将来高血圧になるかもしれない、糖尿病になる素質がある、なんてところも分かってくる。おそらく、その人の素質、例えば運動能力、知能や向き不向きなんてとこも見透かすことができ、寿命までも分かってしまうかもしれない。さて、そうして見ることのできる自己は、確かに真の自己かもしれないが、果たして精神も遺伝子に依存しているのかどうか?
そこで考えるのは、精神とは一体どこにあるのか。自己の全ては脳にあり。そう考えることもできるが、果たして本当にそうなのか?例えば、脳だけで自己を確立できるかどうか?脳は、何もないところから何かを作り出すことはできない。手足と切り離して、果たして脳だけで存在していけるかと言えば、実はそうではない。脳は、様々な体の部分からの刺激を受けて反応している。そこから思考を得、発展させることでものを考えるという作業をこなすことができる。例えば、とんでもない化け物を想像しようとしても、どこか見たことのあるものの合成でしかない。見たり、感じたりしたことのあるもの、つまり経験からしか事物を生成できないのが脳なのだ。そこから想像を発展させることはできるが。真っ暗で何もない中に、ぽんと意識のみが放り出されたとしたらどうなるか?言ってみれば、何もない空間に神様がいるのと同じような状態。さて、神様はここからどんな世界を作っていけるのか?そう考えると、今ある世界を作り上げた神様の自己は脳にはなかったことになるのではなかろうか。
しかし、外界を認識し、自己を認識しているのはやはり脳だ。自己が何処にあるかといわれれば、やはり脳なのか?例えば、幻を見ても、それはその自己にとっては事実であり、認識なのだ。直接刺激を脳に働きかけることで快楽を得る、このような薬が近年日本でも販売されるようになり、社会に波紋を呼んでいる。感情を薬でコントロールできる、擬似的快感、この辺も自己がどこにあるのか考える上で複雑なところでもある。
自己といえば、哲学では頻繁に議論される機械的自己というのもある。機械は心を持つことができるのか?そして自己を持つことはあるのか?人工知能の研究を進める上で、この辺りもその研究の対象となっている点である。もし、自己なるものが分かったとき、自己をもつ機械というのも誕生させらせるだろう。
自己とは一定ではなく、一種の過程であると考えることもできる。生まれたばかりの赤ん坊と、その人が老人になったときとでは、身も心も変わっていく。実際に身体の細胞は常に入れ替わってる、それが常に同じであるように見えているのは、その設計図が同じだから、DNAがしっかり監督しているからだ。内面的によく自己を見つめ直したら、その精神、考えはその後の経験によって変化していく。昨日の自分は今日の自分とは別人であり、明日の自分もまた然り。
驚くべきことに、アメリカで、将来医学が発達して、いずれ人工的に人体を作り出せる、あるいは再生できることを予期して、死後、脳だけを冷凍保存している、などということが行われている。そういう人々は、脳に自己があると信じてそうしているのだ。ただ、私には、自己というものがそう単純なものには思えない。