この仮説は、なぜ今自分という存在があるのか、という究極的な疑問に一つの解答を与えるものである。最初に断っておくが、これは理論的にも実験的にも実証されていない(おそらくその予定もない)私の空想である。
まず、進化は”自然選択”という方法によって全て説明可能である、と考える。自然選択は、その環境で最も最適な者が時間的未来へ存続していく、ということであるが、今この地球上に人間が存在しているのは、今の人間が最も最適にそこに存在することができる形態であるから、ということである。
ここまでは、いわゆる強い”人間原理”的宇宙論の思考方法とほぼ同様である。
ここから、観察者、という主観を考慮していく。現時点で絶対的な観察者というのは、当然いま世界を認識しているあなた自身の意識、つまりあなたの自我そのものである。その自我から全てを解釈しているのである。
しかし、自我はあなただけではなく、あなた以外の自我も存在する。それらの存在は、あなたの自我にとって外部のものであり、別世界だと考えることもできるだろう。
ところで、この世界は、実は多くの可能性の重なりとして考えることが出来る。これは量子力学的な世界観で、その存在率は”波動関数(φ)”で表現されるものである。それでも世界がただ一つしかない、と感じているのは、あなたという主観の中の認識においてである、ということだ。実際は、あなたの認識する世界以外にも可能性は厳然として存在する。可能性が存在する、ということは即ち、そのような世界はあなたの認識に関係なく存在している、ということである。φというのは、存在しているかどうかを表現する記号ではなく、そういう状態は存在している、ということを表現する記号なのだ。
さて、それでもあなたの認識はただ一つである。確かにさまざまな可能性の中から、なんらかの選択肢をあなたの認識において選んでいるだろう。ここで、”自然選択”の登場となる。あなたは”あなたが存在するのに最適の選択をしている(させられている)”と考える。
そう考えると、あなたという自我が今そうして存在し続けていることは、ある意味で当然のことなのである。そうすると、あなたの自我が、あなたの自我において消えることはない。世間では人がたくさん死んでいるが、それはあなたの認識においてそうなのであって、死亡した(ようにあなたが認識した)当人は当人の自我において、その人が存続するような選択肢がちゃんと選ばれているのである。
よくあのとき自分は生きていられたな、と思うことがあるだろう。車を居眠り運転していてガードレールに衝突しかかったが、間一髪で免れた、ということもあるだろう。実は、そこであなたを存在させていく為の自然選択が起こっており、あなたの自我(の認識)では、必ずあなたは生き残るような選択がなされる。しかし、そのとき事故死する可能性が確かにあった場合は、同時に、他(の人)の認識において、あなたが事故死するという現実も、確かに実現しているのである。別の世界では、あなたの親は泣いているかもしれない‥‥
まとめよう。あなたが認識する限りにおいて今その世界(存在)があるのは、あなたの自我(意識)がそれを選択した(させられた)から、と結論される。この方法論において、あなたの自我があなたの自我(の意識)において消えることはない(当然だが、これは、なぜ自分が今ここにいるのか、ということに対する一つの解答である、と考える)。
この考え方を発展させると、たとえ自殺を図ろうとも、必ず本人の自我の意識において死ぬこと(存在が消えること)はできないことになる。ただし、このとき、本人以外の自我の意識においてその死が実現されている。つまり、あなたの死を悲しむ親や友人は実現されながら、あなた自身は、あなたの自我の意識においてやはり存在し続けているという、非常に無意味極まりないことになるのだ。
‥‥空想終わり。