SFなどで”パラレルワールド(並行世界)”という世界が登場することがある。よくある設定が、私たちが暮らしているこの世界にとても良く似ているが、どこか微妙に異なった部分を持つ世界、主人公などの主観で見る場合、その主人公が人生において何か選択をする度に、その選択肢の数だけそこで世界が分岐している、というようなものである。
実は物理学にもこれに似た考え方がある。エベレットという学者が唱えた”多世界解釈”と呼ばれる世界観がそれである。これは、量子力学の考え方の拡張であり、現在メインストリームとなっている量子力学の解釈と競合する形で、現在に至っている。
量子力学では、物質やエネルギーなどを、ある種の”波”として解釈する。誤解なきよう、ここでいう”波”とは、あくまで量子力学の世界で考える波であり、古典論で述べられるような縦横に広がって伝わるあの波ではない。量子力学的な波とは、簡単にいえば”確率の波”である。何かがそこに存在することを、それが存在する確率で議論するのだが、このときの”何か”の位置と運動量というのは同時に特定できない、という、ミクロ世界を扱うときの要請がある(不確定性原理)。このことから、その”何か”の存在について、量子力学では確率的に見ることになる。そのような状態を表現する道具として”波動関数”というものが用いられる。
多世界解釈の前に、まず、現在スタンダードな量子力学では、世界をどう解釈するか、ということを考えてみる。例えば、ある一つの電子がある場所に存在することを、観測という行為をするまで、不確定性によって確率的にわーっと広がったような状態で存在する、と考える。それを実際に見るまでは、それが存在しうる場所に確率を求めて、その広がりで解釈するのである。このような状態を”電子雲”と呼ぶ。そして、その電子を、何らかの方法で観測したとする。このとき、仮にその位置が特定されたとすると、それまで広がっていた雲は、その観測した一点にシュッと集まることになる(運動量でも同様)。これを”波束の収縮”というが、要は、それまで確率分布として見ていた電子を、観測という行為をした時点で、電子の存在が現実の事象として確定する、というわけである。このような解釈は”コペンハーゲン解釈”と呼ばれており、現在の量子力学のメインストリームとなっている。
さて、対抗馬の多世界解釈ではどうか?その電子の存在を確率分布として見るところまでは、コペンハーゲン解釈と同じである。問題は、それを観測するという行為が発生した時点から後である。多世界解釈では、それを観測しようがしまいが、その確率分布は持続している、と考える。どういうことか?例えば、ある一点にその電子の位置を特定したとき、それ以外の可能性が消えるのでなく、やはり、その観測者には認識できない世界で続いている、と考えるのである。そんな馬鹿な話はない。私たちの世界に認識できないのだから、それは”ない”ということではないか。確かに、そう観測した観測者の世界にはないが、その観測者以外の観測者の世界には”ある”のである。つまり、多世界解釈では、観測者をも巻き込んで確率解釈しているのである(観測対象だけでなく、観測対象とそれを観測する観測者が存在する時空全体もその波動関数に含まれている)。そうなると、確率がゼロでない限りの可能性は、全て同時に存在していることになる。可能性のある限りの世界が同時進行しているのだ。まさに”多世界”。
考えてみれば、この考え方は的を得ている。観測対象も、その観測者も、もとは同じ物質からできている構造物である。それらを差別して解釈する理由はどこにもない。誰かが特別扱いを受けるのは納得いかん、という方には、この多世界解釈は馴染みやすいか。もともと、この多世界解釈は、何故観測した時点で突然波が収縮するのか?という問題を解決する為に考案されたという印象がある。その意味で、現在のスタンダードな量子力学を一歩踏み越えた先進的な理屈、といえるかもしれない。